大判例

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東京高等裁判所 昭和35年(う)3084号 判決

被告人 大久保英俊

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

控訴趣意一について

所論は、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、被告人には本件傷害の結果について、業務上過失に基づく責任はないから、被告人は無罪たるべきものであるというのである。

よつて按ずるに、原判決挙示の証拠並びに記録に徴すれば、被告人は自動車の運転者であつて、原判示日時(昭和三十三年十二月一日午前七時五十分頃)普通乗用自動車を運転し、小田原市米神五百四十一番地先の幅員五・四米の舖装道路を根府川方面より小田原市方面に向け進行していたこと、同所には道路西側(被告人の進行方向左側)に米神農業協同組合の作業所があつて、小田原方面行きのバスの停留所が作業所北端附近にあり、一方小田原より根府川方面行きバスの停留所は、右農協作業所入口より北東方約二十米の道路東側に存在していたこと、当時の天候は微雨のあつた直後で路面は幾分濡れていたが、天候の回復と共に事故発生後十五分ないし二十分で乾燥し普通状態に復したこと、被告人は右作業所北端のバス停留所の前方約二十米位にさしかかつたとき、右停留所附近の路上に二、三十人の婦人、子供等がバスを待合わせているのを認めたが、このとき被告人としては時速約十五粁で進行していたこと、被告人は停留所の十米位手前に接近したとき、被害者当時八才、小学生)外二名の児童が、小田原方面より根府川方面行きのバスに乗るために道路東側のバス停留所に向けて道路を斜に横断しはじめたのを発見したので、直ちに停車の措置をとつたが、そのとき右幸雄以外の二名は、被告人の車が進行して来るのをいち早く発見して、元来た道路傍に引き返えしたので何事もなかつたが、右幸雄は被告人の自動車の進行して来るのに気がつかず、一旦道路中央部まで進出した後、漸く気がついて道路横断を中止して右せん回し元に戻ろうとしたとき、停車を完了した被告人の自動車の左前照灯に左手を接触させ、よつて、左前膊拇指切創総浅指屈腱群切断により加療一ヶ月(左手拇指の第一関節はその後も屈曲できない)を要する傷害を被つたこと等が認められるのである。

而して、以上の事実中、被告人が当時約十五粁の速度で進行していた点に関しては、原審証人藤掛昌己は「自分は自動車の運転助手をした経験があるが、被告人の自動車の当時の速度は時速三十ないし四十粁であつた」という趣旨の証言をしているので、もしこれが信用できれば、被告人がそのような速度で進行していたことは、当時の道路及び交通の状況に照らし穏当を欠くと認められるが、当審において右証人を更に尋問した結果によれば、同人の助手としての経験は浅いものであるのみならず、被告人の自動車の速度を判断した根拠についての証言も信を措き難いものがあるので、本件においては被告人が時速十五粁を超えて運転していたことを認めることはできないというべきである。

ところで、前記証拠及び記録に徴すれば、被告人としても、バス停留所に待合わせ中の多数の人の中には、子供の姿もあることを認め、その動向に対しては相当の注意を払つていたことが認められるのであるが、それでは十五粁という速度が当該の状況に応じ相当な速度であつたか否かというと、十五粁というのは相当低速度であるだけではなく、本件道路においては速度制限はないこと、その他道路及び交通の状況等に照らせば、速度自体としては格別不当な速度とはいえないと認めなければならない。原判決は、当時の道路の状況は、降雨直後で濡れておりスリツプし易かつたとしているが、前段説明の如く十五分ないし二十分位後には乾燥し普通状態に復した位であるから、特にスリツプし易い状況であつたとは認められないから、スリツプし易いから時速十五粁の速度では不当であつたとはいえないのである。なお、また、被告人が本件現場を通過しようとするに際し、果して警笛を吹鳴し注意を喚起したか否かに関しては、被告人は現場に至る手前二十米位の曲り角で一回吹鳴したという供述をしているに反し、原審における証人らは警笛をきいたことを証言をしている者はいないのであるが、これにより全然吹鳴がなかつたとも断言できないのであるから、原判決の如く被告人が警笛を吹鳴しなかつたことをもつて過失の一に数えることには躊躇せざるを得ない。

而して、以上の事態において、被告人は被害者赤坂幸雄らが道路を横断するのを発見するや、直ちに停車の措置をとつたと認められるのであるから、右進行速度では僅々十米以内で完全に停止することができる筈であつて、前記の如く被告人が十米位前方で右被害者の道路横断を発見したとすれば、衝突事故は起さずに停車することができる筋合であるが、それにも拘らず事故が発生し被害者の児童が原判示の怪我をしなければならなかつた理由は、如何というに、それは左記の如き二つの事由によるものと認められるのである。

すなわち、一、原審における右被害者の証言、前記藤掛昌己の原審及び当審における証言によつて認め得る如く、被害者及び他二名の児童は、右道路を横断する前には、道路上にあつてバスを待合わせていたのではなく、前記農協作業所の内部に入り込んで戯れていたのであつて、同所からは被告人の進行して来た南方根府川方面は建物の構造上これを望見することができず、ただ、北方小田原方面のみが多少見とおせるのであるが、被害者は自分達の乗る根府川方面行きの通学バスが小田原方面から来たのを望見したので、これに乗ろうとして道路の交通の状況等に毫も注意を払うことなく、急いでランドセルを背負いながら他二名のあとから飛び出し道路を斜に横断しかかつたのであるが、一方被告人としては、往来でバスを待合わせていた人達に対しては注意を払つていたが、思いがけず建物内部から突然飛び出した被害者らに対しては、不意をつかれた形となつたわけで、これに対しては直ちに停車の措置をとつたのではあるが結局前段説明の如き事故を防止できなかつたものであること。二、なお、証拠によると、被害者は一旦道路横断を企て道路中央部まで進出したのであるが、被告人の自動車に気がつき、にわかに右方にせん回して元来た方に戻ろうとしたが、その動作は不自然であり、そのため左手を大きく振つたので、それが停車を完了した被告人の自動車の左前照灯の硝子を強く打つ結果となり、硝子を破壊させよつて前記負傷をしたものであること。

而して、以上の事実関係についてこれをみるに、本件事故は、被害者が道路からは見とおしのきかない建物の内部から不意に被告人の自動車の前面近くに飛び出したことに第一の原因があると認むべきであるが、かくの如き行動は如何に年端のゆかない児童に対しても是認すべきではないことはもちろんであるのみならず、更に被害者が身をひるがえして元来た方向へ戻る動作をしたについても、通常ならば左側に身をひるがえして難を避けるのがむしろ自然であると認められるのに、かえつて自動車の進行して来る方向にせん回したということは、当人としてはとつさの場合の判断であるから、強ちこれを非難すべきではないとしても、客観的にみれば不自然たるを免れ得ないのであり、且つそのために左手を大きく振る姿勢となつたので、自動車の前照灯に触れる事態は起らなかつたと認められるから、この意味からいえば、被害者はその不自然な動作をしたため本来免れ得た筈の負傷を免れ得なかつたものと認めざるを得ないのである。而して以上の如き被害者の行動は、通常これを予想することは困難であると認められるが、かかる事態においても、自動車運転者に対しては、これに対処して事故発生を回避すべき万全の運転方法を要求するというが如きは、いささか苛酷な運転上の注意義務を課する結果となるものというべきであつて、果して然らば、本件において被告人のとつた速度なり運転方法について、注意義務の欠缺を責めるのは困難であるというべきであり、換言すれば、本件においては、被告人に本件事故の原因たるべき業務上の過失があつたことを認定するに足る証拠は十分であるとはいい難いのである。然るに、原判決が被告人に原判示の如き過失責任を負担させたのは、ひつきよう、証拠の判断を誤り、殊に前記の如き本件事故発生の真因についての認定を誤つた結果であると認めざるを得ないので、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認を冒した違法があることに帰し、結局所論は理由があり、原判決は爾余の論旨につき判断を加えるまでもなく、この点において破棄を免れないものといわなければならない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に則り原判決を破棄すべく、但し本件は同法第四百条但書により直ちに判決をすることができると認めるので、当裁判所において被告事件につき更に左のとおり判決をする。

すなわち、本件公訴事実は「被告人は自動車運転者であるが、昭和三十三年十二月一日午前七時五十分頃普通乗用自動車を運転し、時速約二十粁で東京方面に向い歩車道の区別なき巾員五・四米なる小田原市米神五四一番地附近に差しかかつた際、進路前方約二十米の左端に二、三十人の婦人、子供が多数佇立しているのを認めたのであるが、同所は狭隘たる上降雨の直後で路面がスリツプし易い状態であつたから、かかる場合自動車運転者は、警笛を吹鳴して注意を喚起すると共に、適宜減速して佇立者の動静を注視し、何時にても停車し得る措置を執つて進行する等事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに拘らずこれを怠り、漫然同時速で進行した過失により、右佇立者の手前約十米位に接近した際、赤坂幸雄当八年外二名の児童が佇立者の中より進路に向つて飛出したのを認め、直ちに停車せんとしたが、スリツプして停車できず、停車の直前自動車の進行に気付いて逃げ帰ろうとした同人の左手に自車の左側前照灯を接触せしめ、因つて同人に対し左前膊拇指切創総浅指屈腱群切断により加療一ヶ月を要する傷害を負わしめたものであるというのであるが、前段説明のとおり、被害者の受傷につき被告人に業務上過失に基づく罪責のあることの証明が十分でないことに帰するから、刑事訴訟法第三百三十六条により被告人には無罪の言渡しをなすべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 三宅富士郎 東亮明 井波七郎)

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